十四の夏休みのことだった。その日も日差しや照り返しが強く、サウナにいるような錯覚があった。
 けれど心の中は鬱蒼とした梅雨のような、氾濫のような、煮え切らない感情が渦巻いている。
 暑くて仕方ないはずなのに、僕はコンビニの裏口付近で、ジュース片手に膝を抱えるように蹲っていた。
「相原、夏休みが終わる頃には引越すんだよな」
 中学に上がってから気の合う友人として付き合いのあった鈴宮健也が、同じくジュースを片手に座りながら空を見上げていた。
 僕は声に出して言う気力はなく、小さく頷いただけだった。どんなに文句を言われようと、それ以上の反応は勘弁してほしかった。
「納得いってないって顔だな」
「……当たり前じゃないか。夏休みに入る直前、いきなり引越すだなんて言われたんだぞ」
 そのときのことが思い出され、僕は沸々と怒りが込み上げてきた。気づけば鈴宮に八つ当たりするように叫んでいた。けれど苛立ちや憤怒は収まらない。逆に自分でも抑えきれないくらい勢いは増していく。
「僕、行かない。絶対に行かない。一人でもここに残る!」
「なんで?」
 決意を打ち立てるための言葉を、鈴宮は臆することなくあっさりと聞き返した。
 僕はそれがあまりにも冷ややかに思えてしまい、横に座る鈴宮を睨みつけた。
 それでも鈴宮は逃げも怯えもしない。いつもと変わりなく自然に、視線を
投げ返してくる。それが一層腹立たしい。
「なんでもなにも物心づいた頃から、ずっと僕はこの街に住んでたんだ。今更引越しなんて普通嫌だろう!」
「でも親父さんの転勤だったらしかなたいだろ。俺達、まだ義務教育受けている最中だし」
「それはそうだけど、嫌なんだよ。ここでの友人もいるんだ。お前は僕と離れても寂しくないのかよ!」
「寂しいのは寂しいけど、俺は行った方がいいと思うけどな」
「……馬鹿野郎!」
 僕は空になった缶を鈴宮に投げつけると、呼び止める声も聞かずに家に帰ることにした。
 帰れば母が荷支度をしているため、できることなら帰りたくないのだが、かといって何もしなければズルズルと問題は先延ばしにされる。帰って今の自分の気持ちを伝えなくては、一向に気持ちはおさまらない。
 勇み足で歩いている僕を何事かと言うように見つめる、行き交う人の視線。気にも留めずに行き慣れている道を突き進むと、やがて自分の住んでいるマンションへと辿り着いた。
 ただいまも言わずに乱暴に開け放し、中へと入っていく。居間では案の定、母が引越しのための荷支度をしている。引越し当日まで日があるので、すぐには使わない衣類などが主ではあるが。
「母さん、僕絶対に転勤についていかない。ずっとこの家で暮らしてく」
 帰ってきた僕に「おかえり」という母だったが、その後に続く言葉に面食らったようで、目を丸くしている。作業中の手も止まり、固まったように見上げてくる。
「なに言ってるの。そんな勝手なこと、させる訳ないじゃないの。急に父さんの転勤が決まったんだから我慢しなさい」
「勝手なことしてるのはどっちだよ! 僕にはなんの一言もなしで、急に引越すことに決まったからっていう事後承諾だけだったじゃないか!」
「淳、貴方はまだ中学生なんだから当たり前でしょう。それに長い出張になりそうだから、別々に暮らしていたらお金の負担も倍掛かるのよ」
「僕は物じゃない!」
 言い放つと僕は、自分の部屋へと駆け出した。中に入ると鍵を閉め、乱雑にベッドの上に横たわる。
 どうしてこんなに苛立って、怒っているのか気づいてくれたっていいじゃないか。僕は思った。
 たしかに僕はまだ中学生だ。義務教育だって終わっていない。
 父さんの転勤が急に決まって、長丁場になりそうだから一緒に行かなければならないというのもわかる。
 僕はまだ子供で、自分で自分の稼ぎを出せないから、それらは仕方がない。
 けれど一番怒っているのは、急な転勤だったからとはいえ、一言も相談してくれなかったことだ。引越しする算段がすべて整ってから、伝えられたことが悔しかった。
 行くことには変わりないにしても、せめて一言でもいいから伝えてくれたなら、こんな疎外感を味わうことはなかった。一緒に行くのが当然のような決め方が、とても嫌だった。まるで自分が両親の所有物であるかのような気がして辛かった。
 あらかじめ引越すことを伝えられても今のように驚いて、慣れ親しんだ土地や友人と離れることに躊躇い、嫌がっていたと思う。けどここまで駄々をこねるつもりはなかったんだ。
 そのことに少しでも気づいてほしいための言葉だったのに、母は全然気がついてくれない。だったら僕は断固として行く事を拒否するだけだ。
 意固地だと心の隅で思いながらも、決意を固めた。



「よう」
 翌日の朝。鈴宮が前置きもなく人の家に訊ねてきて、僕に面と向かって放った言葉がそれだった。
「……なんの用だよ」
「相原の親は今家にいるんだろ? 話があるんだけどさ、外に行かねえ?」
「嫌だ。そんな暇ない」
「別にいいじゃん。引越す気がないなら、時間は有り余ってるだろ」
「だから暇じゃないって」
 結局僕は半ば強引に鈴宮に連れられて、散歩を兼ねた話をすることになった。
 半分は突然訊ねてきては連れ出す鈴宮に、残りの半分は断りきれずについていく自分自身に腹が立った。能天気にも鼻歌交じりに前を歩く奴に、よけいにそう思ってしまう。
「一体どこまで連れて行くんだよ。僕だって忙しいんだ」
「別にどこでも、行く宛があるわけでもなし。それに本当に忙しいんだったら、こうして出てきてくれるわけないしな」
「……帰るわ」
「待て待て! せっかくここまで来たんだから帰るなよ」
 返答に一気に興醒めした僕は、来た道を迷うことなく引き返そうとする。鈴宮は慌てて止めた。
「悪かったから話を聞いてくれよ」
「……今度また茶化すようなら、本気で帰るからな」
 次はないことを示すと、鈴宮は頷き、顔を引き締めた。
「昨日お前が両親と一緒に着いていった方がいいっていう理由、まだ言ってなかったろ」
「なんでその話を蒸し返すんだよ」
「今言っておかないと、ずっと言えないまま引越してしまいそうだったからさ」
「どうせ僕がいなくなって清々するからなんだろ」
「違う! …それは違う」
 拗ねる僕に鈴宮は一瞬声を荒げたかと思うと、そのあと弱々しく言葉を紡ぐ。
 あまりそういった彼の顔を見たことがないために驚いて、すぐに返す言葉が見つからない。
「寂しくないわけないだろ。俺が言いたいのは、生きていればいつかまた逢えるだろってことだよ」
「はあ?」
 いたく真面目な雰囲気に呑まれ、次に出てくる言葉もそういった類のものだろうと思い込んでいたために、なんとも恥ずかしい台詞に拍子抜けしてしまった。
「本人同士が望めば連絡は取れるし、いつでもすぐに逢えるってわけじゃないけど無理な話でもない。どんなに景色が変わっても、俺達が過ごしたこの土地は消えてなくなるわけじゃない。だから行った方がいい」
 眉をひそめ、僕の声など最初からなかったように、鈴宮はなおも話を続けた。一人で勝手に話を進める鈴宮に、苛立ちが積もっていく。
「そんなの知らねえよ。お前に僕の気持ちがわかるわけねえし、どうしようと勝手だろ!」
 言うと鈴宮は一文字に口を噤み、真直ぐに僕だけを見た。その姿勢に、なにも悪いことをしたわけではないのに思わず怯んでしまう。
「……全部っていうわけにはいかないけど、俺もなんとなく気持ちはわかるんだ。小学四、五年くらいの時だったか、俺もこの街に引越してきたからさ」
 だから気持ちはなんとなくわかるんだと、鈴宮は続けた。
「今の相原みたいに、親の都合で友達や想い出のたくさんあった場所から離れなきゃいけなかったのは寂しくて、なにもできない自分が悔しかった。両親を怨んだりもした。けど今は良かったって思ってる。引越す前の街で友達になった何人かとは今でも連絡を取れてるし、それにこの街でも友達は一杯できた」
「うるさい!」
 僕は聞きたくなくて、声を荒げる。けれど鈴宮も負けてはいなかった。
「相原がこの街に留まりたい気持ちは、少しはわかる。振り返ることも時々は大事だけど、それだけに捕らわれたら凄く寂しい。出逢う明日や人が向こうで待ってるのに意地になって留まって、その一歩を踏みだそうとしないなんてもったい無さ過ぎる!」
「うるさいって言ってるだろ!」
「お前だって、自分が意地を張ってるだけだってわかってるんだろ」
「そんなもの知るか! 僕は不機嫌だ、帰る!」
 僕は鈴宮に目を合わせようとしないまま、逃げるように足早に歩いていく。
 鈴宮はこれ以上無理強いするつもりはないのか、それとも諦めただけなのか、呼びかける声も追いかけてくる足音もしない。
 これを好機に、距離を広げていく。
 鈴宮の言葉を気にしないようにしていたけれど、本当はわかっている。
 言われるまでもなく意地を張っていることも、鈴宮の言葉の意味も、僕はなんとなくわかっていた。けど一度意地を張ったら、素直になるのは難しくて――
「そんなの、わかんねえよ……」
 あえて知らん振りするように囁いた。



 それから三日経った。
 相変わらず引越しのストライキとして部屋に閉じこもっていると、ドアをノックする音が聴こえた。
 もちろんそれは母だとわかっている。昼間だから、父は仕事中なのだ。
「夕飯できたわよ。いい加減部屋に閉じこもっていないで、出てきたらどうなの」
「今日も飯はそこに置いててくれよ」
 言うと母の声も足音もしなくなった。それは扉の前からいなくなったからだとばかり思っていたけど、違ったんだ。
「貴方がそんなに嫌がるとは思ってもみなかったのよ。てっきり賛同してくれるとばかり思っていたの。本当にごめんなさい、だから出てきてちょうだい」
 母が扉の向こうで謝罪した。どんな顔で言っているのかはわからないけど、でも申し訳なさそうなのは声色でわかった。
「……一人に、してくれ」
 息づく音さえ聴こえない程、沈黙が過ぎる。やがて母の足音は、今度こそ遠ざかっていく。
 ――やっぱり僕は、ただの意地っ張りだ。
 僕はベッドの上で膝を抱えたまま、強くそう思った。

 夜もふけた頃、ようやく自分の部屋から出て食べ終えた食器を台所まで持っていく途中、居間の明かりがついていることに気がついた。
 そこには荷造りを続けている母の姿があった。
 周りには引越しセンターのダンボールがいくつか所狭しと組み立てられ、口が開いた状態で置かれている。
 いくら荷造りだけとはいえ、ずっと一人でこなしているためだろうか。どことなく疲れているようにも見えた。その背中がいつも以上に小さく、寂しそうに見えた。
 よく考えるまでもなく、この街を離れなければならないのは、父も母も同じなのだ。
 自分ひとり不幸になった気分になって、なにをしているんだろう。これ以上意地を張ったって、なにも良いことがあるわけでもないのに。
 僕は食器を置くと、居間へと向かう。母は足音に気がつき、顔を上げた。
 かまわず座り、なにも言わずに荷造りを手伝うことにした。
「今更ごめん。……一緒に、行くから」
 すると母は、心底安堵したように微笑んだ。

 時が過ぎるのは早いもので、既に引越しは前日にまで迫っていた。
 そしてこの日、僕は鈴宮の家の前で立ち尽くしていた。傍から見れば、きっと怪しい人として見られているに違いないという思いがしなくもない。
 これまで僕は何度鈴宮の家の近くまでやってきて、そのたびに足が竦み、引き返したことだろう。
 けれど引き返すわけにはいかない。今日はどうしても会わなくてはいけない。
 鈴宮がしてくれたように、僕も面と向かって話をしなくてはいけない。
 他愛もない話ならいくらでもできるのに、どうしても伝えなくてはいけない話はこんなに緊張するものなのだろう。
 そう思いながら心を落ち着かせるために、大きく息を吸いこんだ。
「お前、俺の家の前でなにやってんの」
「鈴宮!」
 覚悟を決めようとしていた矢先に当の本人が、しかも後ろから来てしまい、僕は頭の中が真白になってしまった。
「俺になんか用?」
「うん、あのさ。あ…あ……、ありがとうなんて恥ずかしくて言えるか!」
「なにいきなり怒ってんだよ」
「とにかく引越すことにしたんだよ!」
 お礼を言うためのシミュレーションを何度頭の中でしたかわからない。だというのに意表をつかれ、僕は素直に言うのが悔しいあまり睨みつける。
 鈴宮は先程の言葉である程度察しがついたのか、意に介さないような、むしろ弄ぶような笑みを浮かべていた。
 そんなこんなで引越して遠く離れても結局僕らの友達付き合いは変わらず続いている。
 お礼は気恥ずかしくて言えないままだったけれど、ちゃんと伝わっているようだ。実際口にしなかったとしても、十分に感謝している。
 『出逢う明日がそこにある』という言葉が心に染みて、励みになったことは確かだから。
 いつか新たな節目が来るたびに、その言葉を想い出すだろう。
 同じ場所に立ち返る。同じ場所から再び前へと歩き出すために。
 その時、最初に言う言葉も決まっている。
「いってきます」
 僕は一歩足を踏み出した。


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