赤らんだ頬に手をそえて、どちらともなく顔を近づける。 吐息が触れ合うほど接近した唇と唇。 ――もらった! 唇に触れるものを感じ、心の中で凱歌をあげた瞬間――目が覚めた。 「……ジェシー?」 うっすらと目を明けたその先で愛猫のジェシーが俺の顔を(というかおもに口を)舐めまわしていた。 「お約束って現実に起こると結構ヘコむよなぁ」 なんだろう、この胸に広がるやるせなさは。 ああ、煩悩が不完全燃焼している音が聞こえる…。あ、なんか焼肉を焼いてる音に似てるかも。ジュゥゥゥゥって感じぃ? 寝起きで脳がゆだっている間にも、ジェシーは俺にかまってほしいのか執拗に舐めてくる。 ははは、しょうがないやつだ。 頬がゆるむ。 猫をこよなく愛する俺としては、かわいいペットがご主人様になついてくる姿にやぶさかではない。とくにジェシーはまだ子猫のときから飼っているので、そんじょそこらの動物愛猫団体にも負けないほどの愛情をナイアガラのごとく注いでいる。 ぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろぺろ。 ……しかしさすがに猫のザラザラした舌にずっと舐められていると、顔がヒリヒリしてくる。ぺろぺろというかジョリジョリとヤスリで削られている感じだ。 俺の滑らか素肌が、乾ききった荒野のごとく荒れはじめる。 「すまないジェシー。おまえの愛は俺には重すぎるんだ」 ジェシーを両手で持ち上げて床におろす。 ベッドから出て部屋の西側の窓の前に立って伸びをすると、最期に残った眠気が吹き飛んでいった。 冬休みが終わり、春休みも終わった四月。 昔ならまだ寒さが残るこの時期も、地球温暖化の影響からかそれほどの冷気を感じない。 冬が苦手な俺としては冬から春への早急な気温上昇は願ったりかなったりだ。 かつてそのことを同じクラスの友人である宝船(ほうせん)に言うと、やつはその話題にすぐさま食いついてきた。主に変な方向に。 オゾン層が――、南極の氷が――、少子化が――、東京砂漠が――、と子供が思いつきで話をするような感じで、思いつく限りの言葉を並べて地球の危機を煽ると、真剣な顔で最後にこう付け足した。 『健人もすぐにサバイバルグッズを買って備えたほうがいいと思うよ。残念だけど、地球はもう……長く…ない』 長くない、の言葉の前後の微妙な間が、悲壮感を醸し出してそうで出していなかった。 地球が滅ぶのにどこでサバイヴしようというんだやつは。 このことで俺はあらためて奴のネジの緩み具合を再確認した。 人間的には良いやつなんだが、いかんせんその天然っぷりがしばしば周囲をも巻き込む上、その巻き込まれる頻度がトップクラスの俺としてはおおいに問題があると言わざるをえない。 あー…そういや宝船とはしばらく顔を合わせてなかったな。 まぁ休みの間は、ほとんど実家帰っていたし当たり前か。それに今日からは嫌でも会うだろうし。あんな奴でも間をおくと会いたくなってくるから不思議だ。 気分あらたに身支度を手早くすませ、壁にかかっている時計を確認する。 七時半。 ふむ。春休みの時の起床時間からするとなかなかの好タイムじゃないか。体内時計はバッチリみたいだな。 部屋を出て階段をおり、一直線に一階の居間へと向かう。 ドアを開いて食卓に目を移すと、そこには食べ終わった後の皿だけが残っていた。 竜子(りんこ)が食べ終わった後に流しに運び忘れたってとこだろうか。あいつにしては珍しいな。 ま、どっちにしても俺の分忘れられてるし朝飯は抜きか。 ちょっと落胆。 俺が居候させてもらっているここ比嘉(ひが)家では、基本的に食事は一人娘である従妹の竜子作っている。残り二人の男――俺と文雄叔父さんは料理のスキルに関しては竜子に無能の烙印を押されているので、竜子が食事を作らないと必然的に二人で空腹に堪えなければならないことになる。 昨今の学生にあるまじき朝食生活に慣れきった俺にとって、朝飯抜きは結構なダメージだ。 「くっ、腹の虫が騒ぎやがるぜ」 なんとなく悔しいので言ってみる。 ぐぅ。 律儀に腹が鳴いて合わせた。 ちなみに竜子は一から手作り派なのでインスタント食品の類は一切おいてない。 しょうがないので、ちょっと早いが学校に行くことにする。 玄関まで行くと、我が家のペット二号である犬のコテツが満足げに餌をたいらげていた。 「ようコテツ、うまそうだな」 しかしコテツは、俺の言葉にぴくりとも反応しないどころか、まるっきり無視した。 コテツは俺がジェシーを拾ったのと時期を同じくして竜子が拾ってきた犬で、拾われてきてからもう2年あまり経とうというのに、飼い主である竜子以外には懐くそぶりすらみせない。なんとかしてスキンシップをはかろうと、手を出してあやうく咬まれそうになったことも一度や二度じゃない。おそらくやつのドッグランキングで俺は限りなく低い位置に違いない。 「ふふん。いつまでもこの俺が今の状況にあまんじていると思うなよ。所詮おまえごとき二本足で立つことができなかった程度の進化の末裔が、我らホモサピエンスにかなうはずがないのだ」 霊長類の威厳を存分に発揮し、ビシッと指を突きつける。 ふふん、決まったな。 最近なぜかとみに太りだして、ふてぶてしさが増したその巨体をひと睨みしてから、俺は家の外に出た。 「すーっ、はーっ」 深呼吸して、朝特有の澄んだ空気で肺を満たしてから、俺は歩き出した。 登校するのは約一ヵ月半ぶりとあって、自然と気分も高揚してくる。 高校までの道のりをてくてくと歩いていると、後ろから車の音が聞こえてきた。 振り向かずに、道の脇へ避ける。 よく見るとその車は、世界に名だたる高級車の一つ、ジャガーだ。 ――ってジャガー!? いったいどこの金持ちだコノヤロウ。 金持ちに対する軽い劣等感を感じた俺の横を、車は通り過ぎ、少し先で止まった。 いかにも年上受けしそうな童顔が、車から降りてくる。クラスの女子から愛らしいと形容される顔がこちらを向いた。 ……めちゃくちゃ知り合いの金持ちだった。 「やあ、おはようケント。久しぶりだね」 「誰がケントじゃ」 いつから俺の名前はデリカット的な外国人になったんだ。 「あれ? ……じゃあたけと、だっけ」 「年中会ってる友達の名前間違えるか、普通」 「漢字で書くと一緒だから、時々間違えても不思議じゃないと思うなあ」 これを素でいってるから、こいつは恐ろしい。 「それより宝船」 「なに?」 「いや……なんだ、その車。お前今まで車なんか乗ってきたことなかったよな?」 「ああ、これね。いやさ、おじい様がどうしても乗ってけっていうから仕方なくだよ。最初はヘリで行けっていわれてまいったよー」 「……ああ…………まあ…………そりゃ、大変だな」 焦る以前にそんな発想がでてくることに驚くけどな。 宝船はここら辺一体の地主の一人息子だ。こいつ自体はあんまり金持ちぶったとこがないから時々そのことを忘れそうになる。 「でしょう? ヘリは対空ミサイルでも用意されたら逃げ場がないからね。でもその点この車ままだ安全だよ。普通の窓の代わりに超強化防弾ガラスをはめ込んでるから至近距離からの発砲にも十分耐えられる造りになってるんだ」 「…………」 果たしてそれは車である必要があるのだろうか。 というか話が微妙にかみ合ってない。 「それで実はね、ここだけの話なんだけど、今度この超強ガラスを会社の通信販売で売ろうって企画が持ち上がってるんだ。近頃世の中物騒になってきてるから確実にニーズはあると思うんだよねー。それを考慮しても十分に…」 「なげぇよ。ってか聞いてねぇ…」 俺のつぶやきが、聞こえているのかいないのか、どこふく風で喋りまくっていた。 話題が唐突で長い上、時と場所を考えないので、満足するまで話し続けるのが、こいつの厄介な性格だった。 「めまいが…」 朝っぱらから、異常なテンションの高さにあてられ、目が回りそうになった。 俺はちぇいッ、と宝船の額にチョップをお見舞いする。 「痛っ!」 「落ち着け。そんでとりあえずその話はおいとけ」 せっかく余裕をもって家を出たのにこのまま聞いてたら学校に着くのがギリギリになる。イギリス紳士なみの余裕ある生活を目指す俺としては、朝っぱらから走るなんて精神衛生上よくないことはしたくない。 「それより、なんか車んとこで待ってるぞ」 俺は目線を車のほうに向けた。 すぐそばで外人と思われる黒服の男が三人、無言で横一列に直立していた。宝船が車を降りてからずっとその状態でぴくりとも動いていない。 それぞれ一様にサングラスをかけ、筋骨隆々の鍛え抜かれた肉体が服の上からでもはっきりとそれとわかるほどに良い体格をしていた。 「あ、忘れてた。一応紹介しとくね。この人たちはぼくのボディガードで左から、アーノルド、シルベスタ、スティーブンだよ」 「ず、ずいぶんアグレッシブな名前の人たちだな」 「経歴もすごいんだよ。シルベスタはボクシングの元世界王者だし、スティーブンは一流店でコック長を勤めてたぐらいだから料理もうまいんだ」 「へ、へぇ……」 ボディガードっていうよりむしろ殺し屋のほうがしっくりくるな。 「みんな、こちらがぼくの親友の竜崎健人」 三人の視線が一斉に俺に注がれる。 「…よ、よろしく」 首だけ動かして頭を下げる。 「「「…………」」」 ……ん? 反応がないな。 それになんかどこからか変な機会音が……。 「あれ?…――あ!」 その様子を見ていた宝船が、なにかに気づいたといったようにいきなり声を上げた。そしてあわてて俺から黒服たちを離すと、何事か話し始めた。その様子をみるからに、宝船は黒服たちに何か必死に言い聞かそうとしているようだ。 しばらして黒服たちは一様に納得したように頷くと、車に乗って行ってしまった。 宝船が小さくため息をついて戻ってくる。 「お待たせー。ちょっと説得に手間どっちゃった」 「説得? なんの」 「えっと……あはは、やっぱりなんでもないよ」 煮え切らない態度の宝船。 「まぁいいけどよ。さっきなんか変な音聞こえなかったか?」 「え? そう?」 「なんていうか、映画でよくある銃の劇鉄起こす音ってあるだろ。カチリとか、そんな類の金属音だったような…」 「春の陽気にあてられて幻聴が聞こえたんじゃないかなー。もし精神的になんらかの不安を抱えてるのなら言ってね。いい病院を紹介するから。たとえどんな病気だろうとぼくはずっと健人の友達だよ」 「…もういいデス」 どうやらまともに取り合う気はなさそうだった。というか避けてる感すらある。 「あとね、健人。ただのスキンシップだってことはわかってるんだけど、アーノルド達の前ではできるだけ…なんていうのかな、大人しくしててね」 「スキンシップってさっきのか?」 「うん」 「チョップ?」 「うんうん」 「なんでしたらダメなんだ?」 あんなもんただの軽い挨拶みたいなもんだろ。 「いいから。命に関わるから」 こいつにしては珍しく真面目な表情だ。 「誰の?」 「そんなこと、ぼくの口から言わせないでよー」 俺か? 俺なのか? 俺。命。危険。 ……ナンデ? 「とにかく忠告はしたからね」 話はこれでおしまい、と頭に疑問符をつけたままの俺を置いて、宝船はさっさと歩き出した。 |
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